上野の西郷隆盛像はなぜ着流し姿?妻の証言や愛犬ツンの謎を徹底解剖
東京・上野恩賜公園の象徴として、国内外から訪れる観光客を迎え続ける「西郷隆盛像」。浴衣のようなラフな着流しに帯を締め、愛犬を連れて悠然と立つ姿は、誰もが一度は目にしたことのある日本の代表的なモニュメントです。しかし、維新の三傑であり陸軍大将まで務めた大物政治家が、なぜ厳格な軍服ではなく散歩姿で佇んでいるのか、疑問を抱いたことはないでしょうか。
1898年(明治31年)の除幕式で、未亡人となった妻・糸子が放った「うちの人はこげんなお人じゃなか」という衝撃の言葉の真相、連れている薩摩犬「ツン」に隠された驚きの事実、そしてなぜ西南戦争の「賊軍の将」となった西郷の像が上野の地に建てられたのか。幕末から明治の激動期、そして現代の現地調査から見えてきた歴史の深層を解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 着流し姿の真相:西南戦争で敗れた西郷の名誉回復後、政治色・軍事色を極力排除し「庶民に愛された情の厚い人物」として親しみやすさを強調するために選ばれた。
- 妻・糸子の発言と顔の謎:西郷は写真嫌いで本物の写真が1枚も存在せず、像はモンタージュ肖像画をベースに制作。「人前に普段着で出る人ではない」という恥じらいと容貌のギャップが発言の発端となった。
- 上野建立の歴史的必然性:戊辰戦争(上野戦争)の激戦地であり、かつ日本初の都市公園として全国から集まる人々を象徴する場所として選定された。
【歴史の舞台裏】なぜ軍服ではなく「着流し姿」なのか?政治的背景とウサギ狩りの意図
上野の西郷隆盛像を目にした多くの人がまず抱くのが、「なぜ陸軍大将の軍服姿ではないのか」という疑問です。西郷は明治政府において参謀、そして大日本帝国陸軍大将という最高位に就いた軍人でもありました。鹿児島市内に立つ西郷隆盛像が威風堂々たる軍服姿であるのに対し、上野の像は極めて身軽な単衣(ひとえ)の着流し(浴衣風の平服)に草履履きという姿で作られています。
この服装が採用された背景には、当時の極めて繊細な政治的事情が絡み合っています。西郷は1877年(明治10年)の西南戦争で明治政府に反旗を翻し、城山で自刃した「国賊」でした。その後、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって1889年(明治22年)に名誉回復を果たしたものの、明治政府内部には依然として西郷に対する警戒感や反発が根強く残っていました。
当時の彫刻委員会や発起人代表の樺山資紀らは、西郷を「軍事的な指導者」として顕彰すると、政府内の保守派や旧幕府勢力からの反感を買うリスクがあると判断しました。そこで選ばれたのが、西郷が生涯こよなく愛した「愛犬を連れて山野を駆け巡るウサギ狩り(兎狩り)」の私的な姿です。政治色や武力闘争の記憶を脱色し、質素倹約を重んじ、自然と庶民を愛した西郷本来の人間味を前面に出すことこそが、国民的な合意を得る唯一の手段でした。
除幕式で妻・糸子が放った「違う」の真相|本物の顔写真が存在しない理由
1898年(明治31年)12月18日、上野恩賜公園で行われた盛大な除幕式において、歴史に残るハプニングが起きました。西郷の妻である糸子(いと)夫人が完成した像を見上げた瞬間、鹿児島の言葉で「宿老(うちのひと)はこげんなお人じゃなか(夫はこんな人ではありませんでした)」と周囲に漏らし、顔色を変えたと伝えられています。
この発言は長年、「顔が全く似ていなかったことへの失望」と解釈されてきましたが、近年の史料研究や関係者の回想録を検証すると、より重層的な二つの真実が浮かび上がってきます。
第一の理由は、「西郷隆盛の生前の本物の顔写真が1枚も存在しない」という決定的な事実です。西郷は極度の写真嫌いであり、暗殺を警戒していたことや、自身の肖像を残すことを嫌った性格から、一度もカメラの前に立ちませんでした。現在私たちが西郷の顔として認識している有名な肖像画は、イタリア人版画家エドアルド・キヨッソーネが、西郷の実弟である西郷従道(目元)と、従兄弟の大山巌(輪郭や鼻・口元)の写真を組み合わせて作成したモンタージュ肖像画に過ぎません。
第二の理由は、武士の妻としての礼節です。糸子夫人は、顔立ちの違い以上に「夫は人前に出るときにこのような肌を露出するような着流し姿を見せる人では決してなかった」という、武士の作法に対する困惑と恥ずかしさから思わず声を漏らしたとされています。公式の場では常に威儀を正していた夫が、巨大な銅像として公衆の面前に普段着で晒されている光景は、妻にとって受け入れがたい衝撃だったのです。
愛犬「ツン」の彫刻に隠された真実|実はメスなのにオスの体をモデルに制作?
西郷像の足元で首を傾げ、主人の顔を見上げる忠実な犬の姿は、多くの人々に愛されています。この犬の名前は薩摩犬の「ツン」として広く知られています。しかし、この彫刻の制作過程には、彫刻史における驚くべき妥協と職人の苦悩が隠されていました。
西郷は大変な愛犬家として知られ、生涯で数十頭の猟犬を飼育していました。上野の像を建立するにあたり、西郷が特に溺愛していた名犬「ツン」(薩摩川内市・前田善兵衛氏から譲り受けたメス犬)をモデルにすることが決定しました。
しかし、像の制作が始まった明治20年代後半には、すでにツンは他界していました。そこで犬の彫刻を担当した名匠・後藤貞行は、ツンの正確な姿を再現するために鹿児島の血統を懸命に捜索しましたが、適当なメスの薩摩犬が見つかりませんでした。最終的に、後藤は海軍中将・仁礼景範が飼育していた薩摩犬のオスをモデルに選定し、頭部や全体の骨格をスケッチしました。
つまり、上野の西郷隆盛像が連れているツンは、「名前はメスのツンだが、体のモデルは別のオス犬、顔立ちの造形はツンの特徴を合成したもの」というハイブリッドな作品なのです。後藤貞行の圧倒的な動物解剖学の知見と彫刻技術により、俊敏で筋骨隆々とした日本古来の薩摩犬の美しさが見事に表現されています。
なぜ上野恩賜公園なのか?上野戦争(彰義隊)と歴史の因縁
西郷隆盛の出身地である鹿児島でも、政治の中心地であった永田町でもなく、なぜ東京の上野恩賜公園が建立場所に選ばれたのでしょうか。そこには幕末の動乱期における血塗られた歴史と、明治という新時代の象徴性が深く関わっています。
1868年(慶応4年・明治元年)、上野の山(旧寛永寺境内)は、旧幕府軍の精鋭部隊である「彰義隊」約1,000名が立てこもり、明治新政府軍と激突した戊辰戦争最大の激戦地「上野戦争」の舞台でした。このとき、新政府軍の総指揮を執り、わずか1日で彰義隊を壊滅に追い込んだ張本人こそが、薩摩藩の西郷隆盛でした。
かつて敵味方に分かれて多くの血が流れた上野の地に、新政府の英傑でありながら最後は敗将として散った西郷の像を建てることは、「勝者と敗者の怨念を昇華させ、明治国家として国民を統合する」という極めて強い平和のメッセージを持っていました。実際、西郷像からわずか数十メートルの距離には、かつて西郷が討ち滅ぼした彰義隊士を弔う「彰義隊の墓」が今も静かに佇んでいます。
さらに、上野恩賜公園は1873年(明治6年)に日本で最初に指定された都市公園であり、宮内省が管轄する皇室ゆかりの格式高い土地でした。身分を問わずあらゆる国民が集う近代的なパブリックスペースに西郷像を設置することは、全国から寄せられた2万5,000人以上、総額約2万5,000円(現在の価値で数億円相当)にのぼる一般市民の寄付に応える最適な場所だったのです。
【徹底比較】上野・鹿児島・皇居の銅像データと茨城・笠間伏見稲荷神社の原型
西郷隆盛像や同時代の主要モニュメントは、日本各地に点在しています。それぞれの制作意図や作家性、サイズの違いを客観的なデータで比較します。
| 銅像の名称・設置場所 | 像高 / 完成年 | 彫刻家・製作者 | 衣装・モチーフ | 編集部の見解・鑑賞ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 上野恩賜公園 西郷隆盛像(東京都台東区) | 約3.7m(台座含め約8.0m) 1898年(明治31年) | 人物:高村光雲 愛犬:後藤貞行 | 着流し(単衣平服)、草履、薩摩犬(ツン) | 下から見上げたときの遠近法を計算し、頭部が意図的に大きく設計されている。庶民派の象徴。 |
| 鹿児島市 西郷隆盛銅像(鹿児島県鹿児島市) | 約5.7m(台座含め約8.0m) 1937年(昭和12年) | 安藤照(忠犬ハチ公像の初代製作者) | 大日本帝国陸軍大将の正装軍服 | 城山を背に立つ堂々たる軍人像。上野の着流し像とは対照的な「国家指導者」としての西郷。 |
| 霧島市 西郷公園 銅像(鹿児島県霧島市) | 約10.5m(台座含め約14.5m) 1988年(昭和63年) | 古賀忠雄 | 軍服姿(日本最大の人物銅像) | 京都に設置される予定が紆余曲折を経て鹿児島空港前に建立。圧倒的なスケール感。 |
| 皇居前広場 楠木正成像(東京都千代田区) | 約4.0m(台座含め約8.0m) 1900年(明治33年) | 高村光雲、後藤貞行、山田鬼斎 ほか | 甲冑姿の騎馬像 | 上野西郷像と同じく高村光雲・後藤貞行の黄金コンビが手掛けた、明治期最高峰のブロンズ彫刻。 |
| 笠間伏見稲荷神社 西郷像(茨城県笠間市) | 約3.7m 1898年制作(原型) | 高村光雲(木型原型鋳造) | 上野像と同一の着流し姿 | 上野像を鋳造する際に作成された試作品(分身)が現存。間近で細部のディテールを鑑賞可能。 |
特に注目すべきは、茨城県笠間市にある「笠間伏見稲荷神社」の西郷隆盛像です。この像は、上野の像を東京砲兵工廠で鋳造する際に作られた石膏原型をもとに、後年になって忠実に鋳造された貴重な「兄弟像」です。上野では高い台座の上にあるため見上げることしかできませんが、笠間では目線の近い位置で高村光雲の緻密なノミ跡や衣服の質感を確認できます。
【実態検証】上野恩賜公園での現地取材|鑑賞者が気づかない「3つの視覚トリック」
現在の上野恩賜公園・西郷隆盛像を現地で詳細に観察すると、近代彫刻の巨匠・高村光雲(高村光太郎の父)が仕掛けた卓越した視覚効果に気づかされます。
1. 遠近法を逆算した「巨頭設計」
写真や正面の至近距離で見ると、西郷像の頭部が胴体に対してやや大きく感じられることがあります。これは彫刻の失敗ではなく、高さ4メートルを超える巨大な台座の下から人間が見上げることを計算した高度なパースペクティブ補正(遠近法調整)です。地面に立って像を見上げた瞬間に、頭部と胴体の比率が最も自然な八頭身に見えるよう計算し尽くされています。
2. 後ろに回るとわかる「刀の位置と着物の合わせ」
西郷が右手に握っている引き綱と、腰に差した短刀(薩摩刀)の角度にも意味があります。狩猟用の平服でありながら、帯にはしっかりと短刀が挟み込まれており、「平穏な日常の中にも武士の魂を決して捨てていなかった」という西郷の精神性を無言のうちに物語っています。
3. 台座に刻まれたレリーフと寄付者の記録
台座の裏手や側面には、明治の元勲たちだけでなく、日本全国から少額の小銭を持ち寄った名もなき庶民たちの熱意が刻まれています。建立当時は貴族院議員から農民まで、身分を超えた寄付が集まりました。
【プロの結論】上野の西郷像を訪れるべき人・他のスポットを優先すべき人
上野恩賜公園の西郷隆盛像は、日本の歴史や彫刻史を語る上で欠かせない文化財ですが、観光や歴史探訪の目的によって満足度が大きく分かれます。
訪れることを強くおすすめできる人
- 幕末〜明治初期の近代史に関心がある人:上野戦争の古戦場跡(彰義隊の墓や寛永寺清水観音堂の弾痕)とセットで巡ることで、激動の歴史を立体的に体感できます。
- 高村光雲や日本美術史のファン:木彫の伝統技術をブロンズ彫刻に昇華させた最高傑作の立体構造を直接鑑賞できます。
- 上野駅周辺の定番名所を効率よく巡りたい観光客:JR上野駅「公園口」または「不忍口」から徒歩数分という抜群のアクセスを誇ります。
別のスポットを優先したほうがよい人
- 「威厳ある軍事指導者・西郷隆盛」をイメージしている人:軍服姿の力強い西郷像を見たい場合は、鹿児島市内の城山登山口にある西郷像や、霧島市の西郷公園を訪れる方がイメージに合致します。
- 完全な本人の実物大リアルモデリングを期待する人:前述の通り肖像画を元にした象徴的モニュメントであるため、生前の完全な写実性を求める歴史マニアにはやや不向きです。
【西郷 隆盛 像 上野】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:上野の西郷隆盛像がある場所への最もわかりやすい行き方は?
A1:JR上野駅の「南口」または「不忍口」を出て、京成上野駅方面へ進み、上野恩賜公園の正面階段を上がってすぐ右手にあります。「公園口」から出た場合は、東京文化会館と国立西洋美術館の間を通り、不忍池方面へ南下すると徒歩約3分で到着します。
Q2:西郷像の着物の胸元が大きくはだけているのはなぜですか?
A2:西郷隆盛は非常に暑がりで肥満体型(晩年は体重100kgを超えていた)であったと伝えられています。南国・鹿児島の気候に慣れていた西郷が、山野でウサギ狩りに熱中して汗をかき、風を通すために胸元を緩めていた日常のリアルな姿を再現した造形です。
Q3:犬の銅像だけが後から追加されたというのは本当ですか?
A3:後から追加されたわけではありません。当初の設計段階から愛犬を伴う構想であり、人物を高村光雲、愛犬の彫刻を動物彫刻の第一人者である後藤貞行が分担して同時に制作し、1898年の除幕式で一体の像としてお披露目されました。
Q4:上野の西郷像は撤去されたり移転したりした過去はありますか?
A4:1898年の建立以来、一度も移転や撤去はされていません。第二次世界大戦末期の金属供出(金属類回収令)の際も、国民的英雄の象徴として特別に供出を免除され、上野の山で戦火を生き延びました。
まとめ:激動の歴史と人間味が交差する上野のシンボル
上野恩賜公園の西郷隆盛像は、単なる観光記念碑ではありません。そこには、国家の近代化に命を捧げながらも散っていった西郷への鎮魂、遺族の複雑な心情、そして明治という新時代を生きた彫刻家たちの卓越した職人魂が凝縮されています。
軍服を脱ぎ捨て、着流し姿で愛犬ツンとともに東京の街を見つめ続ける西郷の瞳。次回上野を訪れる際は、ぜひ台座の下から見上げ、幕末の戦火と明治の人々がこの像に託した平和への願いに思いを馳せてみてください。 (出典: 西郷 隆盛 像 上野(Yahoo!ニュース))